好きに溺れる 目の前が乳白色に染まったかと思った瞬間、足から力が抜けた。 ひゅっと喉が鳴り、何とかバランスを保つことに成功した。 「ちゃん?」 遠くからあの人の声が聞こえて、私は力の抜けつつある体をひるがえした。 慌てて走る。もっとも、力が抜けている体で出せる早さなんて笑えるぐらいの早さでしかない。 それでも、一歩でも半歩でも、何尺何寸でもいいから遠のきたかった。 胸の中で絶えず広がり続ける感情が、あの人の姿を一目見ただけでいきなり猛威をふるう。 くるしくなるほどすきなんです。 平仮名にすれば十四の文字。 口に出せない言葉は静かに激しく渦巻く。 「う、う、う、う……」 堪え切れない想いは意味のない言葉となって口から微かに漏れ出した。 まさに、喜劇の一場面に値する。意味のない、無様な自分を世界中が笑ってくれればいい。 そうすれば、こうして一人耐えている気持ちがほんの少しでも救われる気がするから。 苦しすぎる心臓を、着物の上から右手で鷲掴みにする。 空を仰いで、少しずつ息をこぼす。 死んでしまう。 閉じた瞼の裏にも、太陽の光がまぶしい。 「ちゃん」 「ひっ」 不意に、その光が弱まったかと思うと耳元にあの人の声が吹きこまれた。 「ざ、っとさん」 「……どうしたんだい?」 薄く瞳をあけると、覆いかぶさるようにこちらを見下ろす雑渡さんの顔があった。 心臓の音はうるささを通り越して、何の音もしなくなった。 少し心配そうに、眉根を寄せたあと雑渡さんは、包帯で完全に覆われている人差し指で胸を掴んでいる私の手の甲に触れた。 カサリと、乾いた音。 「最近、私のことを避けてるね〜……寂しいじゃないか」 「そんな、こと」 ある。 つっと、雑渡さんの人差し指が滑ると、私の手は微かに震えながら力が抜けていった。 苦しさばかりが募り、悪戯っぽい笑みを浮かべる雑渡さんを直視できない。 「ああ、そうだ。そうやって私のことを見てくれるのはいつ振りだろうね」 「……」 「ちゃん」 心の臓を狙う様に、とんっと人差し指で軽く突かれる。 ゆっくりと、確実にとん、とん、とん、と。 「なにしてるんですか?」 「心肺蘇生」 「…」 「ほら、ちゃん今にも死んじゃいそうな顔してるから」 私が助けてあげるよ。 にいっと、歯を見せて笑う雑渡さんが乳白色に溶けていってしまいそうになる。 すると、とんとんっと少し早まる雑渡さんの指。 「ん?息も苦しいのかい?」 今にも触れそうな距離で囁かれて、本当に息が出来なくなりそうになる。 「………て……い」 「ん?」 小首をかしげて、私の口元に耳を寄せる雑渡さん。 ふわりと、彼の香りが漂い胸の中に満ちてしまった。 息つぎをするように、何とか言葉を紡ぐ。 「大人って………ずる、い」 いつの間にか、胸を突いていた指は首筋をたどり、顎を捕えていた。 光の中に蕩けていきそうに見える雑渡さんの笑顔に、苦しくなる。 「どうやら、本格的に救助活動してほしいみたいだね」 「けっこ……う…で」 んっと、甘い音を漏らして、合わせられた唇に涙が流れた。 このまま溺れ死んでしまうに違いない。 「……どうやら、まだ私の愛が足りてないみたいだね」 大人の言うことなんて信じられないんだから、せめて放っておいてください。 終 |