さようなら、ありがとう。 私は、たくさんのモノをもらっている。 だから、たくさんのモノを持っている。 私はそのうちのいくつぐらいを返すことができているのだろう。 ただ、私はどうあがいても返せないものをあの時にもらってしまった。 どうしたら、返せるのかな? あまりにもはっきりと食満先輩から言われた言葉が私の胸に重くのしかかっていた。 『許さないからな』。 そう、それはまさに私自身の言葉だった。 私自身があの時に投げつけた言葉だった。 幼かったのだ。 私はただ無力な子供でしかなくて、どうしていいのか分からなかった。 だから、泣きながら許さないと叫ぶだけしかできなかった。 それなのに、あの人は。 私の心は、この頭蓋骨の密室に閉じ込められたほの暗い記憶の中へと落ちて行った。 無知と、幼さが手伝って、私は一人先走って実習へと向かっていた。 慎重に慎重を重ねて行動するようにと、シナ先生に言われていたというのに、私は平気だと過信していたのだ。 自分ならば、と。 どうせ、皆が心配するほどのことでもない。 はじめての実習で不安そうに顔をゆがめている級友たちを尻目に、私は一人で走った。 所詮すべてが簡単だと思い込んでいた自分を、今の私ならひっぱたいてやるのに。 だが、過去に戻り私自身を殴ることなんて叶うこともない。 その時の私は口元を覆い、目的の砦に忍び込んだ。 教えられたとおりに息を殺して、天井裏を移動する。 下からは、馬鹿な大人たちの笑い声。 誰一人として私に気づいていない。 私はほくそ笑みながら、砦の奥へ奥へと進んでいった。 ほこり臭いそこを突き進むと、ようやく目的の部屋へ。 密書がこの部屋に隠されているはずだ。 天井裏から下の気配を探るが、誰もいないようだった。 音もなく下へ降りると、ぞくりと、身が震える思いがした。 今なら何でもできる。 そう思った私は夢中になって部屋の中を物色した。 どこに隠されているのか、そればかりを考えていたばっかりに、背後に生まれた気配に全く気付くことができなかった。 「動くな」 ひやりと、冷たいものが首筋にあてられた。 一瞬にして体が床に叩きつけられて、胸が押しつぶされて呼吸ができない。 「がっ…はっ!!」 「貴様、なんの目的だ?」 冷酷までに静かな声が容赦なく私を攻め立てた。 返事もままならないほどに、息が肺からすべて吐き出されてしまったというのに、圧倒的な力が上からかけられ苦痛に表情が歪んだ。 苦しい苦しい苦しい苦しい痛い。 感じたことのない恐怖と痛み。 それが頭の中をぐちゃぐちゃに掻き廻し、そして最後に行き着く答えは「死ぬのか?」という一言だった。 怖い。 殺される。 まっすぐに闇の中からこちらを睨みつけているそいつの目は私のことを何の躊躇もなく殺すことができる目だった。 感情も、激情も、温情もなにもない。 ただただ無感動に相手から答えを得、そして殺すことのできる目。 ああ、忍びの目だ。 「ひっ、ぐ、あ」 逃げようと、考えることすら放棄させるように急所を正確に押しつぶし、死なない程度の苦痛と恐怖を植え付けられていく。 どうしたら逃げれるかも分からずに、私はただただ怯えて泣いてしまった。 嗚咽もあげれず、だらだらと顔じゅうの穴という穴から涙やらよだれやらが流れ出していく。 それすらも、なんの変化も見せずに暗い闇を抱えた目が見下ろしていた。 「では、死ね」 くうっと、刃が首筋に柔らかく潜り込んだのを感じた瞬間 「こんのぉ、変態野郎」 がつりと、硬いものと硬いものがぶつかり合う音。 そして、急激な解放感が私の体を包んだ。 上からかけられていた巨大な力が解かれ、一気に酸素を求めて肺が震える。 しかし、教え込まれていた行動が無意識になされ、私の両手が慌てて自分の口もとを押さえ、激しく呼吸しようとするのを抑え込んだ。 部屋の中に響くのは、押し殺したむせる音と、呼吸を求める私の音だけ。 ようやく、白黒に反転していた視界が元の通りに戻ってから、私は目の前に仁王立ちしている人影に目をやった。 口元を覆い隠していた布を、細い指がずらす。 圧倒的な笑顔。 「大丈夫か?」 にいっと、まるでそこだけ明かりでも当たっているかのように明るい笑顔。 見知らぬ女の顔だった。 その女が私の目の前にしゃがみ込み、ぽんと、頭に掌をおいた。 「この、大馬鹿者」 何が?と、考える暇もなく、ほっぺたが熱くなる。 そして、遅れてぱんっと、音が響いた。 「勝手なことをするな。お前、死ぬぞ?」 「っあ……」 「……生きてて、よかったな」 名前も知らないその黒い忍び服に身を包んだ女はさも、当たり前と言ったように私のことを抱きしめた。 それでようやく、自分の体がいかに冷えているのかを思い知る。 生きていたことを思い知る。 自分のおごりを思い知る。 女の人は、私を安心させるように、軽く背を叩いてくれる。 ようやく落ち着いてきたころに、私と女の人は体を離して向き合っていた。 「あ、ありがとうございます。貴女は?」 「私?私はあなたの先輩」 こんな状況、屁でもないと屈託ない無邪気な笑みを浮かべてその女の人は六年生と、私に告げた。 そして、そのままぽんと、私に課題であったはずの密書を投げた。 それを手にして、私は驚いた眼で彼女のことを見た。 「これ……」 「課題でしょ?どうぞ」 力の差を思い知るのだが、それを超えてなんの壁も感じさせない彼女がただ単にすごいと思った。 くのたまの上級生のことをよく知らなかった私は、自分はなんてすごい先輩を持っているのだろうと、誇りにすら感じた。 先ほどまでの恐怖を忘れて、私も彼女につられて笑顔を浮かべた。 「ありがとうございます!」 「いえいえ、別にいいよ」 「あ、あの、あなたのお名前は?」 「私?私は」 その時、斬と、光が閃いた。 密書を胸に、呆然と、目を見開く私。 とっさの状況に反応して彼女は強く畳を蹴り、私を抱えるとそのまま庭に飛び出した。 そして、私を抱えたままだというのに素早く動き、さっと近くの茂みに身を隠し、さらに移動を続ける。 私は、ただただ声を上げてはいけないとぐっと唇をかみしめることしかできなかった。 なんて、無力なのだと。 ようやく私たちが止まったのは、再び天井裏だった。 用心深く、あたりを見回して、なんとか今は安全だと分かった彼女は私の耳元に唇を寄せて小さな声で呟いた。 「このまま逃げなさい」 「でも」 同じように小さく呟いて、彼女を振り返った。 私は逃げている時から気づいていた。 「う、腕が」 ざっくりと暗くても分かるほどに彼女の腕が、切り裂かれていた。 大げさにため息をついて、腕を怪我しているというのに彼女は、笑った。 「お前が心配するほど、私は軟じゃない。それに、お前がいると足手まといになる」 「っ」 死んでしまうだろう。 相手の力量だって、この人は分かっているはずだ。 私を、私を逃がすために……この人は 「ゆ、許さない」 「はぁ?」 「わ、わ、私は、許さないから」 「何をだ」 「私のせいで、私のせいで……」 「ちがう」 まっすぐに、目を見つめられた。 光が、見えた。 「お前のせいで死ぬんじゃない。私が死ぬのは、私自身のせいだ」 「あ」 「力が及ばずに、私自身が死ぬのなら、私はそこまでの奴だってことだ」 にっと、笑いを浮かべ彼女は最後まで笑っていた。 それでもと、私は声を出そうとした瞬間、鳩尾に彼女の拳が潜り込んだ。 「ゆる…さ、ない…から」 「許されなくったって私は平気だ」 意識を失う前に見た彼女の笑顔は、ただただ大丈夫だと告げていた。 私は、無力に泣きながら意識を失った。 目が覚めた時、もう彼女はいなかった。 残された血の匂い。 そして、密書。 私は、唇を痛いほどに噛みしめたまま用心深くそのまま城を出た。 ようやく外に出て、詰めていた息を吐き出し、嗚咽を漏らした。 ただただ、吠えるように泣きながら走った。 それしかできなかった。 私は、そのまま先生に縋りつくように泣きついてそしてまた、意識を失った。 再び目を覚ましたのは保健室で、新野先生に聞いてみるとすでにあの日から数日が経ってしまっていた。 あの人は?と、問い詰めると、先生は柔和な表情を少しだけ曇らせて私の頭をなでた。 「さん」 ぐっと、息をのむ。 「彼女はね、生きていますよ。でも」 なんの言葉が続くのか。 「彼女はここを辞めました」 それ以上、先生はなにも教えてくれずに部屋から出て行ってしまった。 私は、ただ、彼女が生きているという事実にだけ安堵し、そしてここを辞めたという事実に嘆いた。 自分自身を驕る気はないが、きっと私のせいで彼女はここを辞めてしまったと思った。 目を閉じて、しばらく泣いていると、不意に彼女の笑顔が脳裏に浮かんできた。 「許さな…いっ…から」 意味もなく、そう繰り返していた。 今思えば、私はあの時死んでいてもおかしくはなかった。 それでも、彼女は私を助けてくれた。 その代りに、自分がこの忍びの道から落ちてしまうとしても、助けてくれたのだ。 あの笑顔を浮かべて、今も彼女は同じように笑っているだろうと私は漠然と感じていた。 そんな人だったのだ。 名前を聞いても誰も教えてくれなかった彼女の笑顔。 私は、ただひたすらに嘆き、恨み、悲しんだ後に、まるで天が晴れたように自分自身が貰ったモノの大きさに、ありがたさに気づいた。 そして、それを悔いが残らないようにただ感じることが大切なのだと感じたのだ。 ここに私がいて、そして学園で生活して皆がいる。 ただ、ある「日常」それが全部で、いい。 その大切なものを守れるのなら、私もまた、彼女のように笑おう。 そうだ、私は忘れていた。 「私が許されなくても、私はこのもらったものを守れるなら、守りたい」 大丈夫と、心の重さを振り払うように私は詰めていた息を吐きだした。 そうだ、食満先輩だってきっと分かってくれる。 この日常があるからこそ、私たちは忍べるのだって。 そう、大丈夫。 ぐっと、私は唇をかみしめた。 その時、不意に浮かんだのはまるで彼女のような屈託のない笑顔を浮かべる、あの人の顔だった。 「小平太……先輩」 目を閉じると、二人の笑顔が重なって消えた。 じんと、胸が熱くなった。 続 過去。 現在すら、守られて貰ったモノだった。 彼女になりたかったのか? |