境界線 気がついたら、いつの間にか目で追っていた。 とりわけ用もないのに図書室に行って、本棚の本を眼で追っている振りをしながら、そっと本の背を指でなぞると、かさりと乾いた感触。 普段、彼が飽くことなく触れている感触だと思うだけで、この胸が変にときめいた。 本と本の隙間から、覗き見る。 いつもの仏頂面で本に目を落とす彼の姿。 中在家長次。 どうして好きになってしまったんだろう。 「ぁ」 視線を感じ取ったとのか、長次が視線を上げて、こちらを見た。 交わった視線と視線、その瞬間。 ふっと、彼が笑みを浮かべた。 それは、普段の彼から考えられもしない穏やかな笑みで……そんな表情を見たのは初めてだった。 私の頭はもう何も考えられないくらいにぐちゃぐちゃになって、ともかくその時触れていた本を取り、吸い寄せられるように長次のもとへと歩いて行った。 「あの…これ」 無言で、私の手から本を受け取る長次。 一瞬、触れ合う指と指。 ぎくりと、体が強張ったのを彼は気づいただろうか? 図書カードに記入するために、私へと注がれていた長次の視線が下を向く。 あ、睫毛が長い。 近くで見ると……目立った傷以外にも、うっすらとした傷が頬に幾筋かあって…… 思わず手を伸ばした瞬間、長次の視線がまた私を射抜いた。 「」 低い、彼の声。 私の名前を、読んだだけなのに、それだけでもうどうにかなってしまいそうになる。 「…長次、あ、ありがとう」 差し出された本を、伸ばしたままになっていた手で受け取ろうとした。 「あっ…」 「」 その手を長次が掴んだ。 私の手なんてすっぽりと収まるくらいに大きい彼の手。 ぐっと、引き寄せられた体。 「ちょう、じ」 「……」 無言のまま、このまま彼の腕の中で死んでもいいと思うくらいに、私はどうかしている。 どうかしている。 だって、私には。 「ごめんなさいっ!」 泣き出しそうな顔をしているって自分でも気づいてる。 だけど、私は……長次の胸を両手で押して、その場から逃げた。 なんで、好きになったの? 「上の空だな」 が縁側に座って空を眺めていると、後ろから突然声がかかった。 は、慌てて後ろを振り向こうとするのだが、それが叶うこともなく背後から抱きしめられた。 「仙蔵……」 「どうした。先ほどから呼んでいたのだぞ?」 「え、うん……ごめんなさい」 は仙蔵の方を見ることもできずに、じっと虚空を見つめていた。 仙蔵は、そのことに気づいているのだが、原因が分からない。 いつもなら、抵抗するなり何か口答えするはずなのに…… ただ、なされるがままには大人しくしている。 それが、面白くない。 「、」 のうなじに鼻先をこすりつけ、白い肌に頬ずりをする。 それでも、おとなしいままの。 何かが、おかしい。 しかし、残念ながらその理由もすぐに分かってしまった。 長次が向こうからこちらに歩いてくるのが見えた。 すると、はそのことに気付くと突然体をよじって、私の腕の中から抜け出ようとする。 ああ、そういうことか。 無感動にそう思ったはずなのに、ふつふつとこみあげてくるのはいらだち。 決して逃がさないように腕の力を込めた。 そうした無駄な抵抗をがしている間に長次が私たちの所までやってきてしまった。 「おお、長次。どうかしたのか?」 「……の、忘れ物を」 「わ、私?」 声が裏返ってるぞ。 なんて分かりやすい。 だからこそ、この手に閉じ込めようと思ったのに。 それが愛おしいと思ったのに。 長次が差し出したのは一冊の本。 仕方がなく腕を解いてを自由にしてやる。しかし、ゆっくりと長次にこの光景を見せつけてから腕を解いた。 「あ、ありがとう」 本を渡した長次は、こくりと頷くとまた来た道を戻って行った。 はで受け取った本を後生大事そうに胸に抱きしめている。 そんな光景が腹立たしかった。 「」 苛立ちも隠さずに、名前を呼んでいるというのには私の声に気づかない。 あまりにも腹が立ったので、無理やりの肩を掴んで振り向かせると深々と口付けをした。 まるで、これじゃあ私がのことを好きでたまらないみたいじゃないか。 余計に腹が立った。 「んっ……っ、や、やめてよ!仙蔵!」 「、長次のことを追わなくていいのか?」 「え?」 「私は、気にしていないぞ?」 にっこりとほほ笑んでやると、は眉をひそめて私のことを睨みつけた。 「私、仙蔵のそういうところ嫌いよ?」 「ああ、上等じゃないか」 それでも、踵を返したお前はあの男を追うのだろう? 追えばいいさ。 「……仙蔵」 一人で寂しく食事をとっている所に、現れたのは予想通り、長次だった。 私は、長次を一瞥するとそのまま箸を置いた。 長次は長次で、持ってきたA定食のお盆を机に置くと、私の向かいに座った。 さて、どうでるか。 「なんだ、長次。なにか私に言いたいことでもあるのか?」 「………」 長次の視線が「わかっているのだろう?」と問いかけてきているのはすぐさまに分かったが、それをわざと私は無視した。 無視したところで、向こうも私が気づいているということを察しているのだからそんなこと無意味かもしれないのに。 どうしても、そうしなくてはいけなかった。 「……のことだ」 「ほう、のことか」 この、名の呼び方だけでも私たちの間に差があると感じていたい。 しかし、珍しく饒舌に長次がしゃべるから私はまた無性に苛立つのだ。 「…俺は、が好きだ」 「そうか」 「仙蔵……お前は、のことをどう思っている?」 この手の話題が六年間の間で私たちの間でなされたことはなかった。 新鮮な感覚がこの胸を貫くのだが、話題になっている女はたった一人なのだから始末が悪い。 「か?欲しいなら手を出せばいいじゃないか」 「……本気か?」 「なにがだ?」 「…と付き合っているんだろう?」 「私とがか?ハッ、この状態を付き合うと呼ぶのならそうだな」 髪をかきあげる。 自嘲めいた笑いがこぼれた。 「体だけの関係ならば、付き合っているのだろうな」 「………」 体を重ね合わせるだけで、ついぞあいつと私の心が重なっているかなど確認したこともない。 ああ、この事実を聞いて長次がに幻滅すればいいと思った事は正直に認めよう。 それなのに、長次の視線は狂うことなく正確にこちらを射抜いてくる。 「それでも、俺はが好きだ」 「……そうか。さっきも言ったとおり、ならば手でも何でも出せばいいだろう?」 それでも、私には変な確信があるんだよ。長次。 「だがな、は一時お前になびいたとしても、必ず私の所へ戻ってくるぞ?」 自信たっぷりにほほ笑んでやろう。 私から、が離れられるわけなどない。 「……俺だって、を手に入れたら放すつもりはない」 珍しく笑みを浮かべた長次。 それから私たちは一言も口をきかずに食事を済ませた。 不敵にほほ笑んだ互いの顔を見合わせて、私たちは別れた。 さあ、どうなるか。 選ぶのはお前だ。 背後は書架。 鼻につく本特有の香り。 目の前には、長次。 左右には彼の腕が伸びていて、彼の作り出した小さな牢の中に閉じ込められていた。 逃げ出そうと思えば、いとも簡単に逃げられるはずなのに。 「」 見上げた長次が、あまりに穏やかにほほ笑むから。 「ちょう、じ」 からからの喉からやっと出たのは彼の名だった。 そして、 「名前で、呼んでよ……」 ぐっと、近づく彼の顔。 視界はもう長次でいっぱいだというのに、低い声で、そっと名を呟かれた。 「……好きだ」 間近で見た、長次の視線があまりにも熱っぽくて、私の脳が溶けてしまったに違いない。 そっと、寄せられた唇が優しく触れた。 たった、一度きりのそんな口付けだというのに、体の力がはいらなくなる。 心臓の音がうるさすぎて、泣いてしまいそうだ。 「」 力強く抱きしめられて、私はただそのぬくもりに甘えた。 終 仙蔵は色々分かってない。 長次は色々分かってる。 でも、 |