蒼の奈落 小さく吐息をこぼした瞬間、全てが目の前の胸の中へと吸い込まれていくと感じた。 は押しつけられた鼻先が押しつぶれてしまうのではと心配したが、それよりも最優先で心配してしまったのは自分の心臓と頭だった。 沸点などとうに通り越しているのに、倒れることも、昏倒することも許されないこの状況。 「もんじ、ろう」 「、黙ってろ」 小さな声でつぶやこうものなら、すぐさま遮られて黙らされてしまう。 体に回されたたくましい腕は、感じたこともない熱を持っている。 どく、ど、く、どく。 心音が、体に刻まれる。 身じろぎひとつできずに、ただただ黙って文次郎の香りやらぬくもりやらたくましさやらを覚えこまされるだけだった。 しばらくの間、そうして蔵の影で身を潜めていたが、ようやく文次郎はを解放した。 おびえるように後ずさりして、は自分の口を手で覆った。 その下に隠れている物が、見えてしまわないように。 そんなの様子に気づきもせずに、文次郎は壁の影から辺りを伺ってからほっと息をついた。 「よ、し……仙蔵のやつは行っちまったな…」 「ぅ、う」 「それで、だ。なんか用か?」 天気がいいせいか、影の中は青みがかっている。だから、文次郎も普段違って見えているんだと、は自分に言い聞かせた。それでなければ、やっぱり頭がどうにかなってしまっている。 律儀にも、軽く襟元を軽く正しながら話す文次郎はの方を見ていない。 思ったよりも、文次郎の睫毛が目元に影を落としているというのに、の視線は正される着物をたどる文次郎の指先を追いかけている。 震える、の唇。 揺れた文次郎の前髪。 「………でと」 「あ?」 見慣れたはずの、聞きなれたはずの、文次郎なのに。 なのに。 押しつけるように手にしていた苦無を文次郎に渡した。 「誕生日おめでとう!」 「あ!?あ?お、おい!」 もう、それ以外言えない。 は踵を返して走りだした。 誰にも見せれない顔を両手で覆って、それでも軽やかに走りだす。 止まれない。止まったら、自分でもどうなってしまうかわからない。 あ、あ、あ! これが、恋ってやつなのか。 意味もなく涙がこぼれてしまいそうなこんな顔、誰にも見せれない。 「!」 それなのに、 「待てよ!」 それなのに! 「?」 なんでこの男は追いかけてくるんだ。 「どうしたんだよ?……なあ」 お願いだから、掴んだその手を離して。 今にも、堕ちてしまいそうだから。 「あ……ま、そ、その……よ、ありがとう」 ばか。 誰にもこんな顔を見られないように、ぎこちなく抱きしめてくれる必要なんてないのに。 「」 終 |